氏神様の秋祭り

秋祭りのシーズンである。

わが家は金沢駅に近い安江八幡宮の氏子であり、今日15日が本祭。境内には七、八軒の露店が並んで、店頭では子供たちがおもちゃを物色していた。以前子供たちは人気キャラクターのお面をつけて境内を走り回っていたが、そんな光景は見なくなって久しい。


安江八幡宮は鍛冶八幡ともいわれており、この神社の近辺に刀鍛冶が集まっていたからだという。鍛冶八幡の祭りの日、晴れていれば火事が起きるるといわれており、昔はこの祭りの日が雨になると、火事にならないで済んでよかったと、まちなかのお年寄りは安堵の言葉を交わしていたものだ。鍛冶と火事、発音が同じことによるのだろう。


二代藩主前田利長が金沢上の鬼門を固めるため勧請したのが、ひがし茶屋街そばにある卯辰八幡宮(現宇多須神社)で、神主は厚見氏である。

安江八幡宮はその厚見氏の出であり、現在も厚見を名乗る。金沢の有力神社には、このように家系が継続しているところが多い。

卯辰八幡・才川神明・田井天神・山ノ上春日(現小坂神社)と安江八幡は、藩主の外護のもと「金沢五社」とよばれ、金沢の神社では別格とされてきた。


これらの神社はいずれも神主支配で、神主持といわれた。

ところが江戸時代の神社は神仏習合の様相が色濃く、神社イコール神主ではなかった。多くの神社は別当持、つまり寺院が支配しており、このような神社では神前で読経と焼香が行われていたのである。ずっとそうだったのでさしたる違和感はなかったという。

これは明治維新における神仏分離でなくなり、現在の姿になった。その後別当支配の歴史を知るものはいなくなった。

わが安江八幡は藩主の庇護のもと、ずっと神主が守ってきた、金沢では珍しい神社といえよう。

氏神の秋の祭礼ということで、改めて金沢市史により神社の歴史を調べてみた。それにしても神前で読経・焼香というのは、今では大変なミスマッチにみえる。

しかし寺院が支配する神社、神仏混交は江戸時代にずっと継続して存在していることであり、不思議はなかった。

それが突然改められたのが国家神道が成立した近代以降なのである。


こうしてみると、神道のありかたを神仏習合の視点から見つめなおすことも忘れてはならないと思う。



0コメント

  • 1000 / 1000