鈴木さんは鱸(すずき)を食べるな
これは『三州奇談』の「大人の足跡」という話にあるものです。
このブログに目を通した人のなかに、あるいは鈴木さんがいらっしゃるかも知れない。佐藤と並んで日本で一番多い姓は鈴木さんだから。鈴木さんについては加賀にこんな伝承があります。
加賀国河北潟縁の八田村に鈴木三郎重家の塚というものがあり、今は三薄の宮といっている。重家から五代目の新九郎がここで百姓をしていたが、ある時潟で鱸を釣り上げた。この鱸はたちまち美女となり新九郎と夫婦になった。年月がたって竜宮から迎えがあり妻は帰ってしまい、あとには死んだ鱸が残された。新九郎はその鱸を埋めて塚を築いた。
その後、新九郎は富樫に仕えてこの辺りを治めていたが、亡くなったときには同じ塚に葬られた。やがてここに薄が生えてきた。 村の人はこれらを一つの社に祭り三薄の宮と呼び、餅酒を供えて祭りをした。
ある時祭礼をしなかったところ、村中が疫病にかかった。社にお詫びの祭礼をおこなうと、疫病はおさまった。その後ここには薄がたくさん生い茂った。これを切ると血が流れた。村人はたいそう恐れ、今なお祭礼を欠かすことがない。
伝承のあらすじは以上で、『三州奇談』の「大人の足跡」にある。 どこかで聞いたような話ですが、少しさびしいような、怖いような話です。
まずこれは、鈴木・鱸(すずき)・薄(すすき)という同じ発音の三つススキが出てくる、鈴木姓の起源にふれる三題噺ということができます。
これはさらに竜宮からやってきた鱸が、女人に変身し人間と結婚しやがて異郷に帰るという話です。つまり竜宮伝説・異類婚姻譚・昔話の魚女房でもありますが、竜宮伝説が身近にあることがわかると、なぜかうれしくなったりします。
伝承に出てきたのは、鈴木三郎重家から五代のちの新九郎という人物です。三郎重家は『義経記』や謡曲で、源義経の家臣としてたいそう人気のある人物です。石川県では能美郡別宮城・城主であった鈴木出羽守の先祖も重家としているとされています。
この鈴木一族は熊野の出で、そこから各地に移住しています。熊野の分社を核として布教したのです。彼らは農事や医者、教育者も兼ねた神主であり、地方豪族とも結びついてゆきました。 熊野の鈴木党は水軍としても活躍し、またすぐれた漁業の技術をもっていたので、それも鱸と結びついた一因かも知れません。
鈴木姓の家では、鱸を食べてはいけないという禁忌があるとの伝承があります。
これは『三州奇談』の「大人の足跡」の後半に出てくる話です。この竜宮伝説ですが、加賀・能登は渤海との交流があったところで、渤海を竜宮と見立てたのではないかと、私は想像しています。
この「大人の足跡」は柳田国男も注目しており、いずれ詳しく話の内容や考察を掲載します。
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