『三州奇談』論文連載・①「玄門の巨佛」
このホームでは、私がこれまでまとめた『三州奇談』の各話を考察した小論文を掲載する。149話の内、20話ほどを文学の面からではなく、歴史を主体として捕えたものである。
適宜アップするが、word原稿をコピー、ペーストすると、文中の表や注が抜け落ちてしまう。このため、文中の流れが中断せれるところがあるかもしれないので、お断りをしておく。
流し読みでもしていただき、金沢の奇談にふれていただき、その一部でも面白いと思っていただければ幸いです。
第1回は巻之四「玄門の巨佛」である。
玄門寺は、金沢市内、卯辰山麓寺院群の真ん中あたりにある浄土宗の寺院である。
この前半は、玄門寺近くの観音院にまつわる奇談である。観音院は加賀藩前田家の祈祷所であり、藩政初期から子供が生まれると参拝に訪れたところである。
今回は、まずその前半である。
『玄門の巨佛』
その1 観音院の霊験
一 話のあらすじ
巻之四「玄門の巨仏」は、金沢卯辰山麓寺院群の二つの寺院、観音院と玄門寺の霊験を語
るもので、双方の独立した伝承により成り立っている。
その前半は、大坂冬の陣を舞台として、金沢の卯辰観音院と伊勢神宮が登場する霊験譚である。この伝承の成立過程やその背景を探りながら奇談を読み解いてゆきたい。
「玄門の巨佛」の前半部分、観音院の伝承のあらすじは、以下である。
慶長十九年、大坂冬の陣に前田利常が出陣した。与力・俣野半蔵は名をあげる絶好の機会だと思ったが、出陣は急なことであり自分の馬をもっていなかった。
そこで半蔵は馬が手に入るよう神仏の加護を願い、日頃信心していた長谷寺の観音に祈願した。ある日半蔵は、道で鞍置馬をみつけ、浅野川の橋に立札を立て持ち主を待ったが現われず、藩の許しにより馬は半蔵のものとなった。馬を得た半蔵は、戦場で存分に活躍し手柄をあげた。だが金沢へ帰る途中の近江路で、馬は行方不明となった。
その翌年、半蔵は藩命により伊勢神宮に代参した。すると神宮には、半蔵が戦いの時に乗った馬がいたのである。聞けばこの馬は去年、ちょうど戦いの期間いなくなったという。これを聞いて、半蔵は馬を得ることができたのは、長谷寺と伊勢神宮双方の神仏による利益だったと知り感服した。
あらすじは以上である。長谷寺とは金沢卯辰山麓寺院群の観音院である。作者は、俣野半蔵が大坂冬の陣で手柄をあげたのは、神仏の和光同塵(本地垂迹)によるものだとしている。この話を、史資料によりながら史実・伝承・霊験(縁起)の各視点からみてゆきたい。
ニ 俣野半蔵と神馬
まず俣野半蔵であるが、従軍したとするのは大坂冬の陣である。戦いは慶長一九年(一六一四)京都・方広寺の鐘銘事件を口実に、徳川家康が大坂城の豊臣氏を攻めたもので、いったん和議を結ぶが、翌元和元年(一六一五)大坂夏の陣で淀君と秀頼の母子は自害し豊臣氏は滅亡した。
大坂冬の陣には前田利常は徳川方として参戦し、豊臣方とたもとを分かった。このとき利常は駿府と江戸から帰着三日後、あわただしく出陣している 。利常の本営は阿倍野、全軍は岡山口にあり大坂城と対峙した。
さて、この俣野半蔵は実在した人物なのか。寛永八年十月上旬に大坂の陣の論功行賞がおこなわれ、「弓箭の本意末代の面目」をかけた評定があった(「加州の士大坂陣高名穿鑿の事」(『三壺聞書』)。この論功一覧に、富田下野手合・俣野六兵衛の名がある。六兵衛は富田重政に仕え、大阪再役に従軍して岡山口でもぎ付の首を得て、銀二枚・帷子二を賞賜された(『加能郷土辞彙』)。富田重政は利家に仕え末森の役や大坂両次の役にも従い、人持組に名を連ねた。以上により、俣野半蔵は大坂の役で戦功をあげた、実在した六兵衛をモデルとしたとみてよいであろう。
つぎに出現した馬である。これは無論神馬であり、神の乗用に具するとされるものだ。参詣や祈祷のときなどに献上したが、のち絵馬の風習にかわった。神社にかかる絵馬の奇瑞を伝える話もある。
祭神の使者とされる動物は、ニワトリ、サル、キツネ、シカ、ウシ、ハトなどだが、馬はこれらの動物とは一線を画しているようにみえる。
半蔵の前に神馬が現われてからの馬の動きをたどると、①金沢で不意に現れ、②帰陣の途中、近江路で不明となり、③参拝に行った伊勢神宮でふたたび姿をみせた。
神馬は、神が半蔵に勝ち戦をさせるために現われたのであり、馬が現われた段階で半蔵の活躍は約束されたのである。神馬はいったん不明になるが、伊勢神宮で半蔵の眼前に姿を見せる。これは神が半蔵に対し霊験の主は誰かを、謎解きしてみせたのである。したがって、伊勢代参に半蔵が指名されたのも、神が指名して半蔵を招き寄せたと解釈できる。伊勢神宮は武士にとっては武神であり、武運長久の神異を顕すとされる。
みた限りでは、神仏双方というよりは、伊勢神宮単独の奇特である。半蔵が日頃信心したのは観音院で、観音に一心に祈誓したが、神宮に祈ったとはされていない。作者は和光同塵(神と仏)の霊験譚とするが、これでは伊勢単独の霊験譚といえよう。しかし話の内容からは、あくまで観音が神宮を動かした奇特にしたいとの思いが伝わってくる。その理由をつぎに考えたい。
三 遷座する卯辰観音院の十一面観音
ここで、半蔵の願いに応えて伊勢神宮を動かす霊験をみせた卯辰観音院の本尊、十一面観音とはどのような仏であったのかをみておこう。
真言宗観音院は卯辰山王の別当として、藩政期をつうじて藩主の祈祷所として、宮参りや神事能・開帳行事などで賑わう空間であった。
「其の初め小立野尻谷坂の上にあるの處、慶長六年瑞龍公祈祷所として今の卯辰の山地を賜はり、観音堂曁び山王社再興なり。其の後元和二年天徳君より観音堂の荘厳を加へさせられ」(『越登賀三州志』)とあるように、利長、利常、天徳院とのかかわりが深い。
十一面観音の由来は、「当寺観音者、大和国長谷観音の末木を以、行基菩薩作故、当寺本尊茂長谷観音与申伝、則石河郡石浦村ニ造立仕罷在候処」(「寺社由緒書上)貞享二年(一六八五))とある。これは石浦山王(別当慈光院、石浦神社)の縁起(享保十二年・一七二七)と同じで、双方の縁起に芋掘藤五郎伝説があるのも同様である。このため「卯辰山王は石浦山王の影向社」ともいわれた(森田平次『稿本金沢市史』)。
十一面観音は、初め石浦神社氏子の守り仏であった 。森田平次の『石浦神社来歴考』によると、天正一〇年(一五八二)、石浦神社(慈光院)から真言僧不動坊に預けられた観音は、木ノ新保村、小立野愛宕社、卯辰山を転々とし、しばらく石浦には戻らなかった。そこで氏子惣代は慶長十一年(一六〇六)奉行所へ訴えた(「加賀石川郡石浦七村の民、その守護仏たる観世音像を河北郡卯辰山より回復せんことを訴ふ」『加賀藩史料』)。この訴えは富山城にいた利長により認められ、観音は卯辰山から石浦の本地堂へ帰座した。こうした経緯があり観音院は新たに仏像を彫刻し、石浦の像は古仏、卯辰の像は新作(寛永十年・一六三三の作)とされる 。
結果的に伊勢神宮をも動かした観音院の十一面観音は、行基や大和長谷寺という縁起を誇る一方、人々に身近で人気の観音であったが、石浦山王との差別化のため個性ある霊験・縁起をつけくわえたかったであろう。
四 神馬伝承のルーツ
1 加賀藩と伊勢神宮
ここでは藩政期の伊勢神宮とのかかわりをみよう。伊勢参宮は江戸時代をつうじて、交通などの参宮条件が好転したのを背景に盛んにおこなわれた。社寺参詣は全国的に活発であったが、人数で伊勢神宮が他社寺を圧倒した。
人々は神宮に何を祈ったのか。神と人々をつなぐ役割は御師がつとめた。御師は、伊勢で参拝者の宿泊案内をするとともに、各地の檀家回りをした。御師は武士には陣中に大麻を届けて戦勝祈願、武運長久、本領安堵を、庶民には除災招福・子孫繁栄を祈った(矢野憲一『伊勢神宮』角川学芸出版二〇〇六)。さらに死者のよみがえり、祓の大麻箱が降った、参宮を止めた雇い主が急病になったなど神異・奇跡も説かれた(『日本歴史地名体系』)。神宮の御師は、各層の人々にあわせて神の奇瑞や効験を強調し祈祷をおこない、積極的に教線の拡張を図ったのである。
加賀藩からの伊勢参りの状況はどうだったのか。『加賀藩史料』には「伊勢神宮」の記事が十件ある 。内訳は、神宮への土地の寄進が三件(うち利常がニ件)、百姓などの参宮規制と藩主の病気快癒祈願が各ニ件、それに藩主夫人の参宮・伊勢踊りの流行・藩内における伊勢暦の出版禁止が各一件である。
加賀藩主の病気平癒の祈祷や土地の寄進は、神宮に対す尊崇の念を示すものである。百姓などへの参宮の日数規制がだされたのは、規制しなければならないほど人々が競って参宮し、旅の予定日数を超過したからである。
加賀藩ばかりでなく各藩は、農民が農業を放棄し参詣に出かけることを禁止したが、それは農作業に支障が出るというより、参詣に伴う浪費行為を危惧したからである。加賀藩では、万治二年(一六五九)他藩にさきがけて参宮についての規定を掲げており(新城常三 一九八二)、宮参りの流行に神経をとがらせなければならないほどの状況であった。
2 半蔵と六兵衛
『三州奇談』の俣野半蔵の実在モデルは、俣野六兵衛であった。ところでこの六兵衛自身の大坂の陣の伝承があり、「富田氏家士俣野六兵衛伝話」(「享保紀聞」『金沢古蹟志』)として残されている。あらすじは「玄門の巨佛」の記述と同じであり、神馬の奇特を述べるものだ。享保年間(一七一六‐一七三五)の書であるので『三州奇談』に先行しているが、麦水(一七一八‐一七八三)とは同時代のものである。
その比較表を作成した。あらすじは同様でも、固有名詞は多くの項目で相違している。両書を比較すると、この変改からみえてくるものがある。半蔵と六兵衛の双方の話を見比べていると、縁起(伝承)の成立過程に立ちあっているかのように思えてくる。
比較表で第一に注目されるのは、主人公が日頃どの神仏に祈願していたか、どの神仏により利益をえたかである。半蔵は観音院観音を信心し、戦いの利益は神仏和合(神仏)による利益としている。一方、六兵衛はどちらも神明、つまり伊勢の神だとしている(以下『三州奇談』は半蔵版、「享保紀聞」は六兵衛版とする)。
「玄門の巨佛」の主題は、和光同塵(本文では和光同一)、神仏はあいまって霊験・奇瑞を示すことであり、半蔵版はその方向に向けて変更されている。よくみると六兵衛版に、観音院の名はないのだ。六兵衛版では神明であったものが、半蔵版で観音院となったことが決定的な変更点である。それまでは観音院とまったく無関係であった伝承を、観音院の奇特とする伝承に変化させたのである。なぜ観音院と観音にかわったのかをみよう。
a まず観音院の観音は、半蔵の祈願に応え、伊勢神宮に働きかけ、神宮は神馬を遣わした。観音が神を動かした図式である。卯辰観音は地方の仏だが、大和長谷寺観音と同木、しかも行基が彫ったとの由緒を強調することにより、絶大な力をもつ神宮をも感応させたとするのである。
b つぎに、藩内の社寺重視の方針である。遠く伊勢まで参詣することは、藩内の社寺への冒涜であるとさえする考えである。これは伊勢参りを制限するための、他地域の社寺参詣無用論でもあったのである(新城 一九五六)。藩主側にはこうした背景があり、ここには観音院をはじめとして、藩内の社寺参拝重視の意向が込められている。
c さらに、当時観音院は、歴史の新しい寺院であった。本尊もその頃は石浦の観音であり、縁起もほとんど同じだった。人々は観音に参詣し、後世ばかりではなく現世利益を願った。神仏は人々からの願いに応えなければならない。これにはやはり十一面観音自らが奇瑞や効験、つまり現世利益を示し、個性的な仏として城下の人々の心をとらえなければならなかった。
そこにこの伝承である。大坂の陣に参戦した三代藩主利常は、観音院創建にも尽くした。半蔵伝承は、これで神馬・戦功・神仏・藩主と役者がそろった。こうして観音院の霊験を示す新しい縁起となり、縁日などで人々に語られるところとなったのだ。
麦水は、六兵衛版の筋により史実に沿ったものとする一方、固有名詞を変更して奇談仕立てとした。信仰する社寺を神明(伊勢神宮)から観音院に、霊験の主は神明から和光同一(観音院と伊勢神宮)と変更することで主役を一変し、観音院の伝承を創造したのだ。馬の出現を浅野川大橋付近としたのは、近くに観音院があるからだろう。
かくして享保紀聞・六兵衛版伝承が、観音院の伝承へと転成したのである。このように麦水は、観音院主体の話をつくりあげたのであるが、同時に藩主にも心配りをしている 。『三州奇談』には、たびたび仏法とともに国君・藩主を讃える場面がある。「かかる仏場の栄華も、偏へに観音妙智力によるとはいへども、国君の恩沢より起るにこそと」(巻之五「祭礼申楽」)などがある。藩内社寺への信心が肝要だと説くとともに、藩主の恩恵の言葉を添えるのである。本話を観音院の伝承として創作したのは、観音院は藩主祈祷所であるばかりでなく、観音院が藩主尊崇の象徴であるという意識を、あわせもっていたからだと考える。
本話は、史実・大坂の陣と虚構・神馬を語るもので、多くの課題をふくんでいた。ここで、同じ筋の「半蔵」と、先行する「六兵衛」を比較することができた。どちらも奇談だが、麦水が意図した構想の背景を、思いもかけず覗きこむ機会を得た感がある。
ここまでが「玄門の巨佛」の前半で、後半は玄門寺にまつわる、謙信の生まれ変わり伝承である。
はじめに述べたが、表・注は、技術上の都合で、ここには入っていない。
以上、『三州奇談』シリーズ、第1回「玄門の巨佛」の前半、「観音院の霊験」。
次回は「玄門の巨佛」。
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