このホームには、『三州奇談』の小論文集を随時投稿してゆくことは、前回お知らせした。
それに加えて、かつて仏教文化論を学んだ際のレポートを公表することとした。そのレポートは、教授以外の目にふれることはなかったと思うので、この際、このサイトに本日より、それらを投稿することとした。
内容は仏教学の範囲内のものである。長さはそんなに長くないので、興味のある方は気軽に読んでいただきたい。
当時、レポート作成にあたっては、森雅秀氏の著書などを参考とした。
仏教文化論① 「仏像が出現するまでの間」考
人は自分と他者により「私」の存在を知り、死について考えるようになる。やがてこの世界を超越した「何らかの存在」があることを意識し、宗教的畏怖を覚える。インドの場合、仏教を含め思想や宗教は最終的に解脱を求めていた。
さて釈迦の没後数百年、仏像がつくられなかったのはなぜだろうか。
それについては①「釈迦は完全な身体をそなえていなければいけない、少しでも欠けたところがあってはいけないという意識がつよかったため」、
②「外的な圧力によってはじめて仏像を、つまり釈迦を人間の姿として表現することが可能になった」、以上について考える。
以前より仏伝図にながらく釈迦像がないのは不思議であると思っていたが、最近「ヴェーダの儀礼においては、神々の図像や彫像は用いられなかった(略)神に供え物を捧げるときには、人々は神を天上から招いてきた(立川武蔵『女神たちのインド』)の文をたまたま目にし、これがきっかけとなり「仏像は、もともと無いのが当たり前」との仮説をたて文献を調べた。まずその要点を列記する。
(1)「中インドでは<涅槃>を獲得したものとして決して人間像であらわされることのなかった仏陀(宮治昭『インド美術史』)」。仏教の教義からして釈迦を像としてあらわすことは、本来的にありえないことである、との考え方である。
(2)「インド・アーリアン民族は、古来神像を崇拝しなかった。神霊を祭壇に勧請して祭るだけで、神像は用いなかった。その習慣が初期の仏教徒たちにもあったのではないか(樋口隆康『東西文明の接点』)。これは上記のヴェーダ儀礼や民俗的儀礼との関連についてのことである。
(3)「釈尊の姿はなく、その姿は多くのばあい釈尊と関係の深い菩提樹、台座、足跡、傘蓋、輪宝、経行石、仏塔などで、象徴的に表現された(『仏教美術』2 釈尊の美術)」。
「初期の仏教での崇拝の対象はストウパである。もともとストウパは釈迦の墓である(樋口隆康)」。これは当時聖なるものとされていた礼拝対象物がすでに存在していたため、それに集中していたことを述べるものである。
史資料が少なく限界はあるが、これをガンダーラ以前と以後にわけて考えてみよう。ガンダーラ以前の仏教には、従来からの聖なる崇拝対象がすでに存在しており、さらに「解脱」の境地は「空」の概念が徹底していたことにより、釈迦を人間像としてあらわすことなど、人々には思いもよらなかったであろう。「仏像」が存在すること自体ありえなかったと考える。
それがガンダーラ以後(クシャン朝以後)になると、たまたま西方・外部からの大きな刺激があったことが画期となり、加えて仏教の内部にも諸階層への広がりや、時の経過による教義の変化などがあった。、結果、釈迦を人間の姿で表現することになった。釈迦の死は「大いなる死」であり、人々の目指す仏像は特相を付与し、より完全な姿を求めていった。
紀元前12世紀から8世紀のギリシアは暗黒時代といわれ歴史がほとんど残っていない。その直後400年の間に静かに熟成されていたかのように、人類最古の叙事詩「イリアス」が誕生した。
ガンダーラ以後の仏像は「神々を彫像に刻むことは仏教徒のほうが熱心であった(立川武蔵)」、仏像のその後の推移を美術的にみると、イリアスのそれに重なるものを感じる。
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