建築学からみたアジャンタ石窟


― このレポートについて ―

私が大学で学んだ宗教学・仏教学について、当時期末に提出したレポートを、
ここに前回から掲示し始めた。

「仏像が現われるまで」に続いて、2回目はアジャンタの石窟に関するもので、

宗教空間を建築学からみたものである。

インドのアジャンタは著名な石窟であり、壁画はインド絵画史上類を見ない秀作とされるが、これはそこで繰り広げられた宗教活動の一面を見たものである。

石窟の立地や壁画の絵の中に入りこんだ人々、石窟はすべて未完成だったことなどを述べているが、世俗と宗教についてふれた部分が多くある。

アジャンタ周辺には石窟が集中している。インドの地図を参照しながら読むと、わかりやすいだろう。


アジャンタは、インド西部、デカン高原の北西部にある。下記の地図参照。

宗教学

「アジャンタ石窟 在俗との関わりについて」

                                アメブロ三四郎

はじめに

「アジャンタの壁画」は、日本ではよく知られているもので、古代インドの仏教絵画の傑作とされている。アジャンタは法隆寺の壁画との関連などから、その絵画や仏像彫刻をとりあげ、仏教美術の面から説かれる場合が多いようである。
 ところが、今回「西インド後期石窟寺院群の建築と荘厳」のテーマによる講義に接し、建築学の方法によるアプローチから「石窟寺院としてのアジャンター」を学ぶ機会をえた。宗教空間についての研究は多岐にわたるが、建築学からみることは比較的少ないようである。
 今回、新たな視点からアジャンタを学んだが、建築をとおしての観察では、僧(修行者)よりも、さまざまな階級の在俗の人びととの関わりに注目したい。
 このレポートでは、アジャンタ石窟につき、その立地、聖なる空間としてのアジャンター、壁画に入りこんだ在家の人びと、なぜ未完の石窟群なのかなどをとりあげ、そこにみえる在俗の人びとを考えてみることとする。


(1)アジャンター石窟の立地

 インドの石窟寺院はデカン高原の西北部、マハラーシュトラ州に集中している。デカン高原は大きなプレートの上にのっており、それ全体が岩盤となっており、その岩盤が地上にむき出しになっているところに石窟が造営されている。なぜこうした環境の中に、アジャンタ石窟寺院が造られるにいたったかを、まず考えてみたい。
 酷暑と多雨の季節がはっきりしているこの場所での石窟の利点はどこにあるのかをみた。①地上の建築よりも半永久的であること、②石窟の方が涼しく静かであって、宗教生活に適している、③雨期にあっても雨が漏らないこと、④造るのに適した岩山が多かったこと(『建築学体系4』)、以上四点をあげている。
 いずれの理由も建築面からのメリットであるが、ここでは「宗教生活に適している」の部分に少し異質なものを感じる。宗教生活を苦行、難行とみる立場からは反論があるかもしれず、ここは適当ではないかもしれない。宗教については別の観点から考えるべきであろう。
 アジャンタ石窟は、ワゴーラー川が大地を侵食してできた馬蹄形の断崖の壁面に穿たれている。石窟全図をみると馬蹄形の谷とU字に流れる川がきわめて特徴的な地形をなしていることがわかる。

「谷に囲まれた領域の端部が解放されていることにより、それは閉ざされながらも外界に通じているという、ユニークな特性をもっているのである。そして雨期にもなると断崖に滝が懸かる(武澤秀一)」との指摘がある。
 ここにみる「山、谷、断崖、滝、川」はそれぞれにきわめて聖性が高いものであるが、それらのトータルとして、アジャンタ石窟が立地している地形は宗教人にとってかけがえのない「聖なる場所」であったに違いない(「エレファンタ島」も同様である)。
 宗教学者・エリアーデは「ある空間が聖なる空間に変質するのは、ただ、ある聖性がそこに現れるがゆえである。聖化された空間はすべて、彼岸への、超越への入口を表している」とし、さらに「別世界との交流の確固とした道なしには生きることができなかった」としている。現代人よりはるかに宗教的に研ぎ澄まされていた古代人は、デカン高原の周辺において聖なる場所を発見したと考えたい。
 その聖なる場所において、はじめは自然の洞窟に入りこみ、また木造建築に定住し修行したのであろう。その名残として木製リブの形態が天井に削り出されており、さらに列柱の内転びがみられる。試行錯誤ののちに結果的に石窟寺院の形態に落ち着いたのである。先の建築学的理由はあと付けであり、まずは「聖なるものありき」だったと考えたい。

 ところで、仏教は本来出家の形態をとる宗教である。そのためには在俗信者からの布施に頼らなければ宗教生活を維持することができない。修行のためには人里離れた山中に居を構えていればよさそうであるが、それでは生活がままならず、宗派の将来も望めない。
 石窟が集中しているのは西インドのマハラーシュトラ州で、そこは虎が出没するような山中であるが、当時はアラビア海沿岸と内陸部の王朝の都を結ぶ通商路にあたる地域であったという。人や物資とのつかず離れずの位置関係を微妙に保ちながら在俗信者の布施によって支えられ、仏教集団が維持されていたのである。
 このようにみてくると、聖なる場所を優先して選択したようにみえる修行者たちであるが、修行し布教する基本的財源を確保するための方策、つまり在家との距離感をしっかりと視野にいれてアジャンタに立地したことも、あわせ考えなければならない。


(2)在俗との関係 ― 壁画に入りこんだ人びと

 編年研究において石窟に残る刻文は貴重であるが、アジャンタ第16,17、26窟には「ヴァラハデーヴァ、マシュマカ大臣」の名がみえ、在俗信者は名前が記録される場合がある。同様に、世俗のことは石窟内部の壁画や浮彫にも色濃く反映しており、アジャンタ後期石窟に描かれた世界をみると、そこは僧たちの世間を離れた隠遁の場でなく、むしろ王侯・貴族や商人などの富裕な世俗世界と深いかかわりをもった場であったことが想像される(佐和隆研)、との記述がある。
 アジャンタ後期窟の、第1窟および2窟をみることとする。
 聖なる場所を選んで造営されたアジャンタ石窟群ではあるが、その壁画の世界は必ずしも聖なるもの、そのものではない。「本生図にはさまざまな社会階層、王、バラモン、召使い、商人、農民や富者・貧者、老若男女、そして動物が描かれている。アジャンタの画家は、説話図を通してこの世の環境とその下での人間の営みの多様性を描き出そうとしたのではないか(『アジャンター窟院』)とみる。そして「アジャンタの本生図は、聖なる彼岸に目を向けた現実社会の物語なのである」とする。

 しかし、残念ながら筆者にはこの壁画を読み解き理解することは不可能であり、先行研究・解説書に頼らざるをえない。画面はびっしりと人や動物、もので埋め尽くれている。建造物や岩山で仕切られている程度で、時間の経過を無視したものである。従って壁画をみてストーリーを想像することはできない。ところで、当時の人びともこのような絵は理解できず、僧の絵解きなどに頼っていたのであろうか。
 あるいは、日常では目にすることのできない、石窟内の壁画を目にして、たとえば大仏を前にした奈良時代の人びとのようにその迫力に圧倒されるのみだったのであろうか。当時の人びとがこの空間をどのようにとらえていたのかはわからないが、この壁画にある、この世の身近な人間の営みをとおして来世に目を向けていたのであり、僧侶はその手助けをしていたと考えたい。
 人びとは聖なる絵画に描かれる場合が日本にもある。来迎図においてである。平安期の貴族は極楽往生を希求し、臨終にあたり阿弥陀如来が枕元にあらわれ浄土に引接することを願った。そのトレーニングとして「迎講」なるものを催していた。この浄土に生まれ変わるという宗教劇は、人びとを熱狂させた。新知恩院本の来迎図には、阿弥陀如来と共に往生者を迎えに来る聖衆が、雲上において笑顔で踊る姿が描かれている。この聖衆の姿こそ、宗教劇に歓喜する民衆であり、民衆が来迎図に入りこんだものである。
 布施をする者、また宗教に没入する者の姿が聖なる絵画に描かれるが、このような例はほかにあるであろう。

 古代や中世のインドの宗教美術で、現在絵画はほとんど残されておらず、アジャンタの壁画はきわめて貴重である。そこでは、布施や自己犠牲など、特定のテーマが好まれる傾向があり、インド説話図の特徴となっている。


(3)未完成の石窟

 アジャンタ石窟は装飾の細部まで考慮にいれると、すべて未完成であるとされる。これには「施主の経済力と余命が実際の造営に要する費用と期間を下回ったためだろうが、政情不安定などの原因も考えられる。
 前期石窟はサータヴァーハナ朝、後期石窟はヴァーカータカ朝の、それぞれ王朝直接または王朝に関係する施主の庇護のもと開窟されたとされるが、石窟の造営は大プロジェクトであり、多大な資金と労力を必要とするものであり、王またはそれに準ずる人物の庇護は不可欠のことと考えられる。
 しかし、それにしても30あまりの石窟すべてが未完成であるのは、疑問が残る。前期、後期それぞれ200年の造営期があったとすると、そのすべてが政情不安の時期とは考え難い。

 未完成のひとつの原因は、前の施主から引き継いで次の施主が造営を続けるという思想がまったくなく、石窟を寄進しようとする施主は、誰の息もかかっていない、新たな開窟を求めたのではないか、ということである。ただし、修行する僧たちは造営する施主がいなくなっても、従来通りそこに住まいしたのである。
 さらに想像すれば、インドのこの地方ではもともと日本人が「完成」と考えるような認識がなかったのではないか。修行の場がある程度できあがった段階まできていれば、頓着せず信仰生活に集中することができたのではないかと考えた。
 30の石窟がすべて未完成というのは、筆者の目からは異常なことに思え、それでは完全な石窟とはなにかということを含めて、さらに研究してみたい課題のひとつである。
おわりに
 西インドデカン高原の石窟寺院における建築空間の発展過程を調べ、そこにおける建築や壁画、彫刻の変遷などをみてきた。人びとは石窟寺院をとおして聖なる空間にふれ、儀礼や祭祀に関わってきたのである。レポートでは聖なる寺院と在俗との接点について数点述べたが、宗教空間の研究には、宗教学、美術史、民俗学などの領域とともに、建築学が重要な要素であることを今回知ることとなった。

 この分野の研究はこれまでやや少ないように見うけられるが、儀礼がおこなわれる空間としての建築物、さらには建築物を取り巻く自然環境を具体的に理解するためには、興味ある事柄が数多く内包されている分野であると考える。


参考文献

佐和隆研『インドの美術』美術出版社1978
武澤秀一『空間の生と死』丸善1994
柳宗玄・宮治昭『アジャンター窟院』講談社1981

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