「玄門の巨佛」その2

猫多迷亭

「玄門の巨佛」の前半は12月6日分である。

前回は「観音院の霊験」であった。その後半がこれである。

これは、玄門寺の大仏と上杉謙信の生れ変わり譚である。

(金沢・東山 玄門寺)

一 話のあらすじ

 

三州奇談』巻之四にある「玄門の巨佛」の後半は、玄門寺の霊験と縁起にかかわる話である。

 まずそのあらすじである。金沢卯辰山の長谷寺(観音院)の麓に玄門寺がある。宝暦の頃(一七五一~一七六三)、この寺の和尚は重病で死を待つばかりであった。順生坊という出家が、寺の丈六巨佛(阿弥陀仏)に夜通し祈ったところ、翌朝巨佛は汗を流していた。やがて和尚は回復し、人々は巨佛の霊験をたたえた。順生の信心が仏に通じたのであろう。

 この順生は越中小杉生まれで、むかしは六十六部の修行者だった。能登明泉寺を訪ねた時、壊れた古仏が多くあり、その頭部をもらい受け、丈六仏を建立しようと発願し、勧進した。のち順生は故郷小杉の寺に戻り、仏像が完成したらここに安置したいと願いでた。和尚は、「昔上杉謙信が越中に乱入した時、軍兵がこの寺に入り丈六仏を破却した。それをみた謙信は嘆いて、私が補修する、もし短命だったら、これをなおす者が私の生まれ変わりだといった。そなたは謙信の生まれ変わりだ」と、順生の申し出を承知した。しかし、寺の旦那衆はそんな面倒は寺の荒廃につながると反対したので、和尚と順生は従うほかなかった。

 のち順生は金沢に出て玄門寺に御堂を建て巨佛を安置し、不断念仏の法灯をかかげた。順生は檀家に負担をかけず、三十年勧進したお金で丈六仏を祀った。伝聞によると、時正という道心者は生まれ変わって北条時政となり、九代にわたり権勢をふるった。一方、越後の英雄は道心者に生まれ変わり、仏道に励んだ。このどちらがありがたいか、具眼のものにはわかるはずである。

 あらすじは以上で、①順生が発願した玄門寺巨佛の顕した霊験(代受苦)、②順生が六十六部の勧進僧であり、かつ上杉謙信の生まれ変わりだとされたことが語られている。ここでは、以上の周辺を考察してゆく。


ニ 汗する巨佛


玄門寺の草創

 玄門寺は、金沢卯辰山麓寺院群にある浄土宗寺院である。貞享由来書上によると、玄門寺は寛永十年(一六三三)に玄門和尚が建立したが、「当寺建立以後、江戸ニ而内藤善斉 微妙院様江御訴訟被仕、居屋鋪五百三歩壱尺弐寸拝領仕候」とあるように、のち内藤善斉が加賀藩三代藩主前田利常に取り次いで寺地を拝領した。一方丈六仏は、宝暦八年(一七五八)に順生が発願したことが同寺過去帳にある 。現在金沢四大仏のひとつとされている 。

 この玄門寺開基の玄門と内藤善斉とはどのような人物なのか。玄門は甲斐の人・花村但馬の二子で、出家して金沢如来寺住職をつとめたのち、玄門寺を創建し隠寮したとされる(『稿本金沢市史』)。善斉はこの花村氏の一族であったので、江戸で寺地のことを利常に周旋した(『金沢古蹟志』)。利常と善斉・玄門をつなぐものは何か。

 花村は源姓で甲斐発祥、広瀬丹後の子正資が武田信玄に仕え、「但馬正資―三郎兵衛正吉―忠兵衛正次」と続いた(『姓氏家系大辞典』)。花村姓では十九世紀初めに、花村忠兵衛、花村但馬の名がある(『旗本人名事典』)。

 微妙院(利常)の直言を集めた『御夜話集』に、善斉の人柄を語る話がある。利常が江戸在府の際、酒井讃岐守を正客とした茶事を二度催したが、善斉は相客として招かれた。酒井讃岐守とは、年代からみて徳川家光・家綱の老中であった酒井忠勝(若狭小浜藩主)であろう。善斉は大事な口切りの茶事を、当意即妙のやりとりで如才なくつとめたとある。

 善斉は加賀藩士とも徳川家の旗本衆ともされるが(『金沢古蹟志』)、みてきたように善斉が利常と懇意であったので、旗本の花村某は一族である善斉に対して、金沢で寺を創建する弟玄門のために、とりもちを依頼したものであろう。

 ところで玄門寺の巨佛の頭部がもとあったのは、真言宗明泉寺(現鳳珠郡穴水町明千寺)である。寺伝では白雉三年(六五二)の創建、行基や弘法大師の作仏があり、「頼朝公及び将軍家の廟跡」(『三州志』)や梶原景時の伝承、住持と三条西実隆の交流などを伝える。往古は大伽藍であったが 、天正年間(一五七三‐一五九二)上杉謙信の兵火にかかり廃墟となったという。ここでは鎌倉とのつながりに留意しておきたい。

『能登志徴』は、「境内に仏像及び梵字等彫たる古石散乱し、又堂内に千余年をも経たりしと見ゆる、大小の木佛を多く積置けるなど」と記しており、「玄門の巨佛」の記述である「欠損した古仏」につうじる。十八世紀には、すでに破損した仏頭などの存在が、金沢で知られていたのである。

 明泉寺は、かつて能登国三十三所観音霊場第一番札所であり、本尊千手観音の七年毎の開帳には、鹿島・珠洲二郡に加え、越中からも参詣者を集め、ここには順生の故郷小杉もふくまれている。紙本着色明泉寺絵図(寺蔵)は、室町時代の作とされ、大伽藍が描かれている。明泉寺は、『三州奇談』巻五「祭礼申楽」にも、淡吹き悪尉面(尾山神社蔵)の奇特で登場しており、城下との関係が認められる。

 能登での勧進僧の活動では、岩倉寺(鳳至郡時国村)が知られている。明応九年(一五〇〇)同寺御堂が炎上し数年後に再建したが、尽力したのは勧進沙門、奥州会津山郡岩峅寺の空真で、遊行漂白的な生活をする遍歴の聖であった(浅香年木『中世北陸社会と信仰』法政大学出版会一九八八)。これにより、この地には以前から日本海を行き交う遠方からの勧進僧がいたことがわかる。

身代りの縁起

 玄門寺創建から百年ほど後の宝暦年間、巨佛が身代りとなり汗をかき、信者の病気を治す霊験譚が生まれた。これは順生がとりついで仏が霊験を顕した、つまり順生の病人加持でもある。

 身代りとは仏・菩薩が人間に代わって苦難を引き受けてくれる信仰で、地蔵・観音に多く、不動もある。ここは阿弥陀仏による身代りである。『今昔物語集』には、三井寺の身代り観音譚があり、加賀藩内では伝燈寺に身代り地蔵伝説がある。『三州奇談』巻之四「伝燈の高麗狗」の、狛犬が狼から村人を守る身代り伝承である。

 勧進僧の目的は、寺社建立などのために資金を集めることである。「勧進僧は、資金集めのため説話を操作することでより成果が上がると考えれば、それを利用したことは容易に想像がつく」(伊藤慎吾二〇〇五)との見解には同感である。人にはさまざまな願望があり神仏に利益を求めるが、信仰を集めるために寺社みずからが奇瑞を発信することは当然で、双方向のものである。順生は、あるいはこのようにして、みずから身代り阿弥陀の霊験を発信したのかもしれない。同時代の人・麦水は、生まれたばかりの奇瑞に関心をもちつつ、「玄門の巨佛」を書いたであろう。

 

三 謙信の生まれ変わり


六十六部

 さて順生には玄門寺巨佛の身代り伝承に加えて、謙信の生まれ変わり伝承がある。それは順生がもと六十六部だったことによるが、六十六部とはいかなるものだったのか。

六十六部は六部ともいい、法華経を書写して全国六十六の霊場に納めて廻る行脚僧であった。江戸時代には仏像を背負って、鉦や鈴を鳴らして米銭を請い歩いた。勧進聖・勧化と同様であり、社寺や仏像の建立修理などのため金品の寄付を募ったが、勧進を名目として出家姿の乞食僧も目立った。東大寺の建立および再建のため勧進した行基や重源が知られるが、反面、もの貰いや押し売りをする者もいた。罪を犯したものが、滅罪のため諸国を巡ることもあった。途中行き倒れた場合、その場所につくられたのが六部塚である。金沢市五郎島町には村人とともに暮らし、庚申講を教えた六部の墓がある 。

 つぎに『加賀藩史料』により、勧進僧がどのような存在だったのかをみてみよう。まず勧進を許可し、または僧の宿泊を認めた例として、天正十二年(一五八四)珠洲法住寺、寛永七年(一六三〇)石動山、寛永十年(一六三三)石動山、宝永四年(一七〇七)尾添村宝代坊などがある。一方、勧進活動禁止や勧進僧への助力禁止の記録は、(表)にあるとおりである。

 ここからわかるのは、①勧進僧のほかに山伏、人形廻・躍子、瞽女・座頭なども諸国を廻っていた。②諸勧進は停止されているのに強要するケースがあった。「近年次第に猥に相成、寺僧・社人其外遊芸之族迄も、村中江立入令権化、剰其所々表立候者を相頼、権柄を以銀・米等過分取候旨相聞候」、「件之趣不届至極之儀沙汰之限に候」(延享二年)。③多額の金品を要求し、強引に宿泊を求めることがあったなどである。また個人で多くの金銭を所持し、もち歩いていた。④寛文四年には、「従来行われていなかった諸勧進を禁ず」とあり、祈祷をしてまわる勧進僧には悪質な者が多くいたことをしめす。藩は邪教とみなす宗教を警戒したびたび通達を出したが、あまり守られなかったのであろう。

 六十六部の一面を具体的にイメージさせてくれるのが、小松和彦の『異人論』(青土社一九八五)である。ここでは伝説や昔話に現われた「異人殺し」を論じているが、異人とは六十六部(座頭・山伏も)をさす。六十六部は遍歴して民俗社会(ムラ)にやってくるが、そこでかれらが殺される伝承が多いことに注目する。その理由は、①閉鎖的な社会のなか、異人たちは単独で行動しており、②なにより勧進した大金をもっていたので殺しの対象となり、それは特定の家の盛衰の民俗学的説明に用いられたとしている。不法・乱暴の者や、金をもった弱者の勧進など、六十六部の多面性がうかがうことができ、「異人」や「勧進僧」を民俗学の立場からみると、また別の世界がみえてくる。


謙信の生まれ変わり

 上杉謙信(一五三〇‐一五七八)は越後を統一し、関東や信濃への出兵を繰り返し、さらに越中・能登に進んだ。能登に遠征したのは天正四年(一五七六)で、同五年(一五七七)九月に七尾城を攻略、翌六年(一五七八)六月謙信急死、天正七年(一五七九)謙信の家臣鰺坂長英が七尾城を追われるまで、上杉氏の能登支配は実質二年ほど続いた。

 順生が仏像頭部を求めたとされる明泉寺は、謙信軍により兵火を受けた。能登への侵攻経路は三方面からで、そこに兵船により珠洲三崎に上陸するコースがあり、明泉寺など奥能登の寺社が破却されたとされる(『七尾市史』)。

 謙信と能登との接点は、それ以前からあった。能登の畠山氏と上杉氏は京都の公家三条西実隆を間にして交流があり、明泉寺の僧成身院宗歓が上杉氏の手紙を実隆に持参し、また上杉氏の京都代官神余昌綱が実隆から畠山氏への手紙を届けたりしたことがあった。さらに越後の年貢を運ぶ場合や商取引で能登を経由しており、経済的にも同盟関係にあった(東四柳史明一九九五)。謙信は、能登では侵略者のイメージが強いが、こうした一面もあったのである。

 ただし謙信には、やはり破壊者の姿がある。永禄三年(一五六〇)と翌年の小田原城攻めのとき、長尾景虎(謙信)軍は、付近の寺社民家を焼き払う焦土作戦をとった。厚木郷の最勝寺の本尊造立願文写(『厚木市史』一九九九)には、①最勝寺の阿弥陀三尊像は景虎により破壊されたが、三年後に景虎により再興された。これは再興の意趣を記した願文の包紙に記されている。②しかし、包紙のなかに本来の意趣文があり、謙信の暴行略奪が詳細に記されていた(井上鋭夫『上杉謙信』新人物往来社一九八三)。実際に再建したのは厚木郷の某であり、景虎はそれにはかかわっていなかったのである。

 「玄門の巨佛」の最後に、生まれ変わりの謙信と北条氏を対比させる場面がある 。まず「時正という道心者は、後身北条時政となりて、九代の権威を振ひし」と、時正の生まれ変わりが時政であることをしめす。これは北条四郎時政が江の島に参籠し子孫の繁栄を祈っていたとき、「汝が前世は六十六部であり、その善根によってこの国に生まれることができ、子孫は栄華を誇るだろう。しかしその行いが天道を外れれば七代以上は続かない」との託宣があったことを指している(『太平記』巻之五「榎嶋弁財天」)。

 謙信と北条氏の生まれ変わりの対比は以下である。

  [順生]=「謙信の生まれ変わりは六十六部順生」、

  [時政]=「六十六部時正の生まれ変わりは北条時政」

 さらに、[順生]=「仏恩を営む道心者」、 [時政]=「七代を過ぎても権勢をふるう」

と、仏法と現世での権力を対立項として比較している。

 そして、どちらが人間として「幽明の損益」においてしかるべきかを問いかけ、世俗の権威より仏法に仕える者のほうがふさわしいと軍配をあげるのである。

 六十六部順生は、仏縁により玄門寺縁起に入りこんだ。寺社の縁起は草創や沿革、霊験を記すものだが、民間伝承をとり入れる場合もある。また宗祖や高僧にくわえ、勧進僧が縁起にからむ例として捉えることができる。

 このようにして玄門寺の巨佛をめぐる伝承は成立し、六十六部を媒介として、玄門寺の縁起に個性をあたえ、具体的に霊験の成立過程を語ることとなったのである。

 最後に順生と時政の対比があるが、作者麦水はここで謙信の生まれ変わり順生を讃えつつ、あわせて謙信その人が、いかに優れた人物であるかを主張しているのである。

 『三州奇談』の日置謙の解説は、読む際の助けとなる。そこで「珠玉を拾ひ得た如く感ぜしめる記事」とされるのが、この「玄門の巨佛」である。理由はこの大佛の建立来歴が、ここにしかないからだとする。この奇談集にも史実が組みこまれていた。近世の人々は、いったい何をみていたのか、麦水が丹念に集めた地域の情報のひとつである。


注    (注の番号の位置は示すことができない。参考として記す)

1)玄門寺過去帳に「宝暦八年八月一四日、便蓮社即誉順生法師、大仏像発願主、玄門寺八世承誉上人弟子」とある(『加能郷土辞彙』)。

2)四大仏は、ほかに卯辰山麓の蓮昌寺立像、寺町寺院群の浄安寺坐像・極楽寺坐像。

3)藤原道長は弘法大師、聖徳太子の生まれ変わり説がある(『栄花物語』小学館一九九七年)。

上の写真は玄門寺付近。

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