奇談の犬たち 「家狗の霊妙」(『三州奇談』)その2 元禄卯辰山の山崩れ

 犬が発揮する霊力のはじめの話は、災難を予知する犬である。

  この話は、金沢城下の家士の飼い犬が山崩れを予知し、主人夫婦が難を逃れたというものである。犬の予知により、飼い主の夫婦が家を立ち退いたのは元禄12年12月22日、翌23日に茶臼山が崩れ、夢告のとおり大災害が発生した。

  山崩れで浅野川が埋まり、犬の飼い主・喜兵衛の隣家まで85軒が被害にあい、男女30人余が圧死、洪水は浅野川左岸に広がり材木町まで浸水したという。

   茶臼山というのは、卯辰山の別称である。卯辰山は、金沢城下の東方に位置する標高141メートルの山であるが、通称向山と呼ばれ、また臥龍山・夢香山・茶臼山と称された。卯辰山の山中には、観音山・愛宕山・摩利支天・毘沙門山などの小山があった。

 

 卯辰山の麓をかすめるように、浅野川が北流する。浅野川は金沢南東部山間に源流があり北西へ流れて、犀川の北方を並行して、卯辰山と小立野台の間を通りぬける。のちにみるように近世の浅野川は洪水が相次ぎ、卯辰山は軟弱な地質であったため、たびたび山崩れが発生した。 『石川県災異誌』には卯辰山の山崩れが7件残されている。加賀藩で災異誌に記載された山崩れは9件で、うち卯辰山周辺が7件、さらに元禄期に3度が集中しておきている。このうち元禄12年の山崩れが、奇談が述べる災害と一致している。死傷者数や損壊家屋からみて、藩政期で最大規模の山崩れであった。

  史料と奇談にみる被害は、死者31人はほぼ同じだが、人家の全壊が奇談は85軒、史料は数100軒とある。山崩れは、高さ10間余、長さ100間余(高さ30メートル、幅200メート)の規模で、浅野川を埋め、対岸の人家の上まで押しつぶした。これにより浅野川が堰き止められたので水害が発生し、水は川の左岸の材木町方面に流れこみ、損壊する家も多かった 。


  卯辰山の元禄12年山崩れ前後の災害をみておこう。元禄2年(1689)7月16日には、先の災害地付近で山崩れがあった。観音山が崩れ、浅野川河中に新山が出来(「政隣記」)、また茶臼山雷鳴の如く崩れ、谷を埋め河原へ突出し、水を堰き止め乞食三人が死亡した(「参議公年表」)。観音山とあることから、元禄12年の現場より、やや下流と考えられる。

  この翌元禄13年(1700)2月2日にも、また同じところが崩れた。前年より大規模だったが、死傷者はなかった(「政隣記」)。ただし新川筋を埋め、再び材木町辺まで水没し、人々は難儀した(「聞書」)。復旧工事用の船24艘が土砂により破損し、その代金を川堀奉行が申請した(「前田貞親手記」)。同年3月、ようやく浅野川の疎通工事が完了し、前田対馬守が巡検した(「政隣記」)。  これ以後卯辰山のこの地を崩れ山と呼ぶようになり、それは卯辰茶臼山の続き、観音の出崎の山だとする(『金沢古蹟志』)。


  さて奇談に名のある田原喜兵衛は、成瀬氏の家士である。成瀬内蔵助は八千石の人持組であった。居所は小立野・八坂に続く高台にあった。「其の体甚だ美々しく、実に城郭の如く見ゆ。故に俗に材木町の小城とよべり」(『金沢古蹟志』)。喜兵衛はこれを見上げるところの浅野川近くに住いしていた。  ところで、喜兵衛の隣りに住んでいた二〇〇石・塚本左内の家までが、打ちつぶされたとある。この左内は実在の人物で、元禄13年没である。父助進は微妙公(利常)に仕え、祖父猪右衛門は四百石で高徳公(利家)に、のち横山長知に仕えた(『石川県史料近世篇』諸士系譜)。

  奇談は左内の安否には触れていない。政隣記によると「組外塚本左内・御大工中村久太夫・御細工人加藤仁兵衛圧死。其外御扶持人大工小右衛門等也」とあり、左内は亡くなり、遺体は翌24日の昼ごろようやく掘り出された。  

つづく

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