蓮華王院と浄瑠璃寺について
今回は蓮華王院の千体の観音像と、浄瑠璃寺の九体仏を考えたレポートである。
仏教のエロスとグロテスクについての授業を受講した際のレポートである。
ユニークな視点からの授業だった。
仏教文化論 「蓮華王院と浄瑠璃寺について」
猫又迷亭
エロスとグロテスクの仏教美術を考えるとき、「聖なるもの」でオットーが指摘していることが根本にある。「宗教的畏怖の前段階は、妖怪の恐怖を伴う悪霊的恐怖であり、それが活躍しだすのは薄気味の悪いという感じにおいてである。
恐れと生々しい形、つまり原始人の心情に新しく始めて現れたこの感じから宗教史の発展が始まる。この感じの中に悪霊も神々も根を持ち、その他の神話的解釈も空想もこの感じの具体化したものである」、オットーはこう述べて、さらにヌミノーゼの要素として「接近不可能な」「畏怖」「優越」「力」「絶対他者」「魅するもの」「巨魁なもの」「崇高なもの」などを具体的にあげており、これらは宗教的なエロスとグロテスクを考える上でのポイントとして重要である。
まずグロテスクについてから始めるが、ここでは摂関期から院政期さらに鎌倉時代にかけての仏教周辺を考えてみる。日本が古代から中世へ転換していくこの時期は興味深い題材を数多く内包している。この時代の背景としては985年に世に出た往生要集における地獄の強烈なインパクトと、1052年に末法が到来するとする末法思想である。
往生要集は引用の経論160余部、引用の数952文ともいわれ、特に地獄について詳しく具体的に述べており、絵空事ではなく現実感をもって読者に迫るものである。この極楽浄土を欣求し来世を希求する浄土教信仰と、現世における厄災の除去や祈願の成就など現世利益を実現する密教修法が時代の基調として存在していた。そうした中、巨大な権力と富に裏打ちされ建築、仏像、仏画、仏具などが制作され、美麗な仏教美術が頂点に達した時代でもあった。
仏教美術が花開き爛熟したこの時期は、熱狂、狂信とみられるような状況であった。白河上皇時代の修善一覧をみると、絵像5470余、丈六627体、3尺以下の像2930体など常軌を逸する数となっているが、ここではまず、ひとつの建物に多数の仏像を納めた空間に注目してみたい。
三十三間堂には千手観音坐像を本尊としてその左右に五百体ずつの千手観音立像が配置されている。鳥羽上皇の時代にはすでに千体観音堂が二棟造営されており、これは三例目である。このようなかたちを多数作善といい、浄土を希求する院政期の特質のひとつであるという。今の三十三間堂は建てられて間もなく火災にあったがすぐに再建されたので、もとの姿とほとんど同じといってといってよいであろう。
今この堂に入ると瞬間、なにか異様な濃厚すぎる空気を感じる。聖なる空間には違いなく厳粛なものを覚えるはずであるのに私が受けるのはそれとは違うなにかであり、この違和感のようなものはどこからくるのであろうか。一体ずつ(または数体)をひとつの空間に配置するのが標準的聖なる空間であり、空間を構成する仏像によっては東寺の講堂のように二十体ほどでも荘厳さを深めることになるであろう。
それがひとつの空間に同じ観音像が千体、横長の堂にいっぱいにぎっしりと並んでいること、それが異様さ、ある種グロテスクと感じてしまうのであろう。千体の像と横長の長方形の堂、これは数と形の両面でそれまでの仏教の常識をはるかに破るものであった。当時はそれを「畏怖」すべき「巨魁なもの」で、さらに「接近不可能なもの」であるとして崇拝され、民衆は中身は分からないけれども、「ありがたく畏れ多いもの」として受けとめ、畏敬の念を抱いたのであろう。
このある種グロテスクという感覚は、あるいは「バロック的な」と言い換えることができるかも知れない。この常とは違う空気がこもる空間には時おり引きこまれてしまう。ここにはすでに、地獄草紙など醜なるものへの匂いが漂っている感がある。権力は時として奇抜で風変わりと思われるものをうみだす。
現在三十三間堂が残っている蓮華王院は後白河上皇の発願で平清盛が造進したものである。後白河上皇は思いもかけず天皇に就いて以来上皇として生涯を終えるまでに、源頼朝・義経、木曽義仲、平清盛などと息つく暇もなく丁々発止のやり取りを繰り返している。そしてその間隙をぬって膨大な文化的な活動をおこなっている。
それは政治的なパフォーマンスであり、ある種覇権であるとの見方があるがその通りであろう。政治の面ではままならぬことはあったが、すくなくとも文化の分野では他を寄せ付けない孤高の才能と実行力をもつ存在であり、それを最大限に発揮した。
後白河上皇の文化的な活動の中でも絵巻物制作は特筆されるものでありジャンルは多岐にわたっているが、後白河は千体仏だけでなくその絵巻物などの文化的財産を蓮華王院に、なぜか閉じ込めてしまった。このことについては「それらを蓮華王院にしまいこんでしまった、見ることの寡占、文化的ヘゲモニーを世間に知らしめることである(松岡心平)」などと説明されているがこれでは分かりにくいところがある。
ここは田中貴子が「宇治の宝蔵」で述べているように「世間では見ることができない宝物が秘蔵されている場合その宝物の値はさらに高まり、さらに架空のものまでもあるかのように思い描くことがあり、伝説的な存在感をもつにいたる」との説が直截的でイメージが浮かびやすい。そして「病草紙などは反・王朝美、後白河としてのグロテスクとしての美意識を示し、宗教的救済へとつながるものであったことが展開された(棚橋光男)」という見方が強く印象に残っており、これを支持したい。
エロスについては浄瑠璃寺をとりあげてみる。ここは九体寺ともいわれ、九体の阿弥陀如来が横に並んでおさまっている。多数作善でも九体阿弥陀堂の場合は、先の千体堂と違う印象を受ける。現在は浄瑠璃寺だけに残る様式であるが、藤原道長が法成寺ではじめてこの形式で建立して以来、11,12世紀で記録に残っているだけで30棟が確認されている。九体の阿弥陀仏が横に並んでいるさまはやはりすこし異常であるが、千体堂で覚えたほどの違和感はなく、ひとつの聖なる空間を形成しているとは考えられる。しかし同じ如来である阿弥陀仏が、ひとつの空間に九体連座しているという、この空間での祈りはどのようにしておこなうのか。
中央に鎮座するひとまわり大きな上品上生仏を第一として、以下下品下生仏まで順に祈るのであろうか。また下品中生を願うときにはその阿弥陀仏のみを選択して祈るのであるかなど、すこし疑問は残る。仏画であれば問題ないが、彫像では個別の対象となるのでそうはいかない。
浄瑠璃寺は京都・奈良の境の山中にあるが、九体の阿弥陀仏とともにそこには三尺ほどの吉祥天像が右手を与願印に左手に如意宝珠をささげておさまっている。この像は密教的な妖艶な表情をもち、全体鮮やかな色彩をとどめている。吉祥天は東大寺や薬師寺の図像が有名であり、日本では奈良時代から親しまれている。
吉祥天について、辞典では「容姿端麗」の像が多いとあるがはたしてどうであろうか。女性を強調したエロスを感じさせる要素が十分に含まれていると考える。吉祥天女に恋をした僧の話が日本霊異記(中巻第十三)と今昔物語集(巻十七第四十五話)にほとんど同じ形で記されている。山中の寺にやってきた僧が天女の塑像をみて一途に恋い慕い日夜祈っていたところ、ある日僧は夢のなかで天女の像と交わり、あくる日よくみると天女の腰のあたりに不浄の淫水がしみついていた、このことはやがて里人の知れるところとなった。
僧は事の次第を詳しく話すと、人々は不思議なことだと思ったが深く信仰すると神仏に通じないことはないものだということが本当に分かった、という筋であり「多淫な人は絵に描いた女にも愛欲をおこすというが、むやみに思いをかけることは慎まなければ」、と結んでいる。これは信仰をもつことは善であり、その結果願望が満たされる夢をみて、それが成就したという有り難い夢と受けとめられる。
以前この話を読んだ際、すぐに浄瑠璃寺の吉祥天像のことを思い浮かべたのを鮮明に覚えている。当時の像ではエロスを感じさせる数少ない像であると思う(法華寺の十一面観音、観心寺の如意輪観音も加えたい)。田中貴子は「外法と愛法の中世」第一部で吉祥天と竜女、さらに弁財天とのつながりを述べているが、このうち吉祥天の性別について、南都の世界にはない女性性が強調されるのは、性の力を尊重する密教の影響であるとしている。
この像も密教の色合いが強く出ているように思える。女性性が色濃い吉祥天が山深い阿弥陀の世界にまぎれこんでひっそり密かに信仰の対象となっていることもエロス的な要素を増幅させているようである。ところで、この吉祥天の説話は和泉国、現在の大阪府泉南郡の山寺の話であったことを今回知るにいたった。しかし、これは浄瑠璃寺にこそふさわしい物語であることにかわりはない。
この吉祥天像は秘仏とされている。秘仏は宗教上の理由により見てはいけないもの、一部の僧には許されるもの、きまった時期だけ一般人も拝観できるもの、などいろいろなケースがある。あるいは法隆寺の救世観音のごとくに見たものは目がつぶれるなどの言い伝えもみられる。光による退色保護を理由とするのは最近のことであろう。
秘仏化はその仏の価値をより高めるために宗教の側、寺院の側が図ったことと考えるが、それは仏を厨子の中に閉じ込めることにより、「接近不可能な」「魅するもの」として、より一層仏の尊厳を増幅させることにつながる。「秘すれどあらわる」、見たいという人々の想いはさらに募るであろう。後白河は三十三間堂をまるごと封印し、藤原一族は宇治の宝蔵を封印した。厨子を封印して秘仏とすることは、それと根本的に同じことではないかと考える。そういえば明治になるまでは、平等院や東寺の講堂などの寺院は、閉ざされた空間であり、ごく一部の人にのみ開かれていたのである。
[参考文献 ]
オットー「聖なるもの」山谷省吾訳 岩波書店1968
速水侑地獄と極楽「往生要集と貴族社会」吉川弘文堂1998
安田元久後「白河上皇」吉川弘文堂1986
元木泰雄編「院政の展開と内乱」日本の時代7吉川弘文堂2002
金岡英友・宮田登他「地獄と極楽」 図説日本仏教の世界⑤1988
田中貴子「外法と愛法の中世」平凡社2006
棚橋光男「後白河法皇」講談社1995
五味文彦他「日本の中世史7」中世文化の美と力 中央公論新社2002
新日本古典文学体系36 今昔物語集 校注者小峯和明 岩波書店 1994
新日本古典文学体系 日本霊異記 校注者出雲路修 岩波書店 1986
「復元の日本史」説話絵巻庶民の世界 毎日新聞社1991
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