カンタベリ大聖堂

2006年、イギリスのカンタベリ大聖堂行った時のことを、題材にした小論文である。

カンタベリはドーヴァー海峡の近くであある。近くによいパブがあった。

ロンドンからはグリニッジを通ったことを思いだす。建築学からみたもの。

写真のコピーができなかったのは残念。注も例によって入れることができなかった。



「ゴシック建築・カンタベリ大聖堂で見たもの、見えなかったもの」

                               猫又迷亭


はじめに

これは、イギリスのカンタベリ大聖堂をとりあげ中世キリスト教の教会堂建築について考える。筆者は2006年8月にイギリスへの旅に出かけた。旅行にはいくつかの目的があったが、カンタベリ大聖堂はその一つであった。何回かの欧州旅行で、旅の途中で立ち寄った教会堂はあるが、その目的として教会を選んだのはこれだけである。

その理由は、英国国教会の総本山であること、かつチョーサーの『カンタベリー物語』に触発されてのことであった。十分な下調べもせず、通常のガイド誌のみを手掛かりとし、結果的には「カンタベリの空気と風景に触れてきた」だけであった。そもそも日本寺院をみる場合でも仏像や風景が主で、建築物の魅力は見逃されがちである。キリスト教会は基礎的な知識が不足しているだけに、肝心なポイントが抜けてしまう。

ここでは、キリスト教建築物・ゴシック様式としての「カンタベリ大聖堂」を4つの視点から考え、2006年の旅を補完する作業としたい

(1)印象にのこったもの―ステンドグラス

ゴシック様式が登場したのは12世紀、パリ近

郊のイール・ド・フランス地方で、その特徴は

おおむね次の3点である。

(1)昇高性をアピールする尖塔アーチが天井に

使用されていること。

(2)側壁に縦長の大きな窓が穿たれているこ

と。この窓から外光がステンドグラス通過して

入る。

3)フライング・バットレスの使用により、堂内の柱は細身でも石造り天井の重量を支えられるようになった[2]

ゴシック様式の特徴は以上のとおりだが、イギリスにおける最初の建築はフランスの建築家ギョーム・ド・サンスによるカンタベリの内陣(1174~85)であった。そこで筆者が5年前に見たもの、写真に写っていたものを「教会堂建築」としてあらためて振り返り見なおすこととするが、当時は見えなかったものが多い。

はじめに「ステンドグラス」をとりあげる。圧倒的な印象を受けたのはステンドグラスがくり広げる空間であった。「教会堂とは、祭壇とミサを保護するための覆いである」[3]であり、それは「神の国」を実現することであるが、この光と絵の効果は絶大である。そこには聖書や聖人の伝記からとられた物語が描かれているが、かつては説教のなかで「絵解き」の形で驚異に満ちた話が伝えられたという[4]。物語の知識のない筆者にもそのイメージは迫ってくる。視覚的にアピールするステンドグラスは、文字を読めない人は勿論、人びとの信仰への理解に大きく働きかけたであろう。

神秘的な光のなかで過ごした時間は、異次元にいたかのようにわれを忘れていた。その途中、ステンドグラスの光と色彩はどこからくるのかと、ふっと思った。はじめ照明設備があるのかと考えたが、それが自然光であることを理解するまで時間がかかった。何かステンドグラス自らがそれぞれの色彩を発しているような感覚でもあった。

こうした光の効果は「フライング・バットレス」の発明によって、大きな開口部がある身廊壁が可能となり、窓の面積が飛躍的に大きくなったからである。窓は堂内を明るくするためではなく、神秘的な光で堂内を満たすためであった(『図説大聖堂物語』p24)。

カンタベリ大聖堂南北両側廊とその東に接する袖廊の下の12の窓には「新旧約聖書の一致の図像」をあらわしたステンドグラスがはめられていたが、現在では北側廊の二つの窓に残っているにすぎない[5]

(2)感じたこと―高い天井

扉口から身廊に入ると高い天井と明るめの堂内(天候は

よかった)が広がる。カンタベリ大聖堂の身廊天上高は

21mだが、ゴシック建築は高さを追及し競いあう面があっ

たようだ。イール・ド・フランス地方をみるとゴシック最

初のサンス大聖堂が24m、シャルトル大聖堂34m、アミ 

アン大聖堂が42mと巨大である[6]

内陣は写真で見るように高窓、トリフォリウム、大アーケ

ードからなる三層構成となっている。天井には六分ヴォール

トが架けられているのが確認できる。天井のリブヴォールトは、今回のレポートで初めてその存在が目に入ったものである。また、周歩廊を通りアプス部の「トリニティ・チャペル」に至ることが今回の参考文献に写真入りで掲載されていたが思い出せない。

飯田喜四郎氏によると、「大アーケードヤトリフォリウムのアーチは多数の刳形を用いて厚い壁体を強調しており、ピアの付け柱にもトリフォリウムのアーケードにも色大理石を用いて華やかな装飾効果を追及している」とする[7]

(1)、(2)をまとめると、ゴシック建築は垂直性、無重力性を強調した、ステンドグラスをはめた骨組構造の建物となる。天井の高さは現地で体験できたが、無重力性は文献掲載の写真によって理解することができた。

(3)カメラがとらえていたもの―フライング・バットレス 

                        

               旅の記録を久々に眺めつつ、このレポートにとりか

               ったが、一番の成果は左の写真をみつけたことであ

               る。大聖堂の側壁にみえる凸部はピナクルを備えた

               控え壁、フライング・バットレスが写されていたの

               である。ゴシック建築が目指したことは、壁を薄く

               開口部を大きく、そして神の国まで届くような高さ

               であった。いずれも組積造にとっては困難な課題で

               あった[8]。それがフライング・バットレスの発明に

               より解決されたのである。

                リブ・ヴォールトと同様、フライング・バット

              レスはまったく筆者の意識に浮かぶことはなかったのであるが、この機能はいかにも中世西洋的なものとして、興味深いものである。建築物の重量をコントロールするものとして、日本の寺院建築では軒を支える斗や肘木からなる複雑な「組物」がその構造の一つのポイントであるが、身廊壁を支えるフライング・バットレスから組物を連想した。さらに日本建築には「遊離尾垂木」という柔軟な技術があることをあわせ思い浮かべた。

ところで「教会堂の主体は内部空間にある。外部は、内部を演出するためのいわば舞台裏といってもよい」[9]との見解がある。「構造の仕組みを建物の外部に露出させた結果」であり、聖なる内部を重視したというものである。考えるに聖なるものは内部同様外部に対しても聖性を示さねばならず、建築家もまた外面をおろそかにするものではない。ゴシック建築は内部とは異なり外面はごつごつした感じをあたえるが、それは力強さを表しているようでもある。当時の建築家、あるいは依頼主は教会堂の外観をどのように考えていたのであろうか。

ところで掲載した写真はフライング・バットレスを強調するため写真上部をトリミングしてある。写真は中央の塔を撮ったものであり、フライング・バットレスはたまたまそこに写しこまれたものである。写真集には西側双塔を正面から撮ったものはなく、次の(4)節にある南西側からのものしかない。西側正面のスペースの都合で双塔が画面に収まりきらなかったという条件はあったが、実際には中央に聳え立つ塔が教会堂の中心だと考えていたのである。

これについては次のような解説を目にした。それは西正面の扱いについてフランスとの比較ある。フランスゴシックの西正面のデザインについては、双塔を含めた全体の幅は、その背後に続く外陣とほぼ同じで、立面は正方形を単位として構成され安定した形をとるとする。一方イギリスは交差部に堂内の採光を兼ねた巨大な塔を建て、これを全体の構成の中心として、西正面の双塔はあまり発達しないという記述である。

筆者が教会堂の中心と思いこんだのは、この交差部の巨大な採光塔であろう。

(4)教会堂の中心軸を考える―西正面、西構え 

 建築物を建てる際に、その方向は重要な要素である。

それが宗教的な建築物であればなおさらである。日本の古代寺院では南北を軸とする例が多くみられが、バシリカ式教会堂では東西を軸として、西を正面として東に祭壇を設けてい。

これについて馬杉宗夫氏は聖アウグスティヌスの言葉にある「東から始まる天の動き、地上の楽園は東にある」などを紹介したうえで、キリスト教のあらゆる時代に遵守されていたとしている。さらに聖地エルサレムの方向に祭室を向けたため祭室が東側になったとの説は納得できない、それはエルサレムより東の地にある教会堂もまた東側に向いているから[10]、ともしている。また特にプロテスタントはこうした方向の象徴性を無視しているとも述べている。

地図は当時の世界観を表すものである。ギリシア・ローマの時代には科学の進歩により地図は進化したが、中世にはキリスト教の影響下におかれた。1280年にヨーロッパでつくられた「ヘレフォード・マップ」は、東に楽園があるとする世界観から東を上とした[11]。こうしてみるとキリスト教にとって東は特別な方角であったといえよう。

一方ドイツでは、西側正面も単なる入り口ではなく、西構えと呼ばれる独特の形がある。これは世俗の王をも礼拝の対象としたためだとされ、袖廊が2つ、交差部も2つあることになる[12]。西構えは王の権威を示すものとして納得できるが、東西軸については調べた限りでは資料が少なく諸説を調べることができなかった。南北軸と東西軸の比較は宗教と文化のありように関わる課題だと考える。

おわりに

西洋の教会堂建築を調べつつ、いつも日本の寺院建築が頭のどこかにあった。フライング・バットレスのところで組物が浮かんだように、「塔」、「回廊」などについて東西の比較を考えようとしていた。

日本の寺院建築の授業終了後、兵庫県の「浄土寺浄土堂」を訪ねた。快慶の像もよかったが、大仏様の建築物をある程度読むことができ、遊離尾垂木を見つけるなどして建築物を知る面白さを感じた。これまで見えなかったものが見えるようになり、視野が拡がったのである。

5年前を回顧し、写真を見直しつつ文献にあたり「カンタベリ大聖堂」の建築を考えてみた。仏教学は数年間学んできたが、キリスト教については門外漢でありその分苦労した。しかし、今回建築物からキリスト教に入ることができ、少しだけ視野がひろがった。中世の巡礼たちが目指したカンタベリ大聖堂の姿がおぼろげながら垣間見えたようにも思える。

建築史で思ったのは、意識して見ようと思わなければ見過ごしてしまうものがいかに多いか、さらには見たものについての幾分かの知識があることが不可欠であるということである。これはどの学問分野でも共通のことであるが、建築物は自然に目に入ってくるものだけにことさら痛感したのである。

このレポートを書いて、未知の思いがけない情報を数多く手にした一方、まだまだ理解の及ばない部分があることを痛感した。

参考文献

浅野和生『ヨーロッパの中世美術』中央公論新社2009

馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』講談社1992

C・D=クラゴー『建築物を読みとく鍵』ガイアブックス2009

L・グロデッキ『図説世界建築史8ゴシック建築』本の友社1997

佐藤達生『図説西洋建築の歴史』河出書房新社2005

佐藤達生『図説大聖堂物語』河出書房新社2000

陣内秀信ほか『図説西洋建築史』彰国社2005

日本建築学会編『西洋建築史図集』彰国社1983

A・E=ブランダンブルグ『大聖堂ものがたり』創元社2008

吉田鋼市『西洋建築史』森北出版2007



[1] カンタベリ大聖堂平面図。『図説世界建築史8ゴシック建築』本の友社より。

[2] 酒井健『ゴシックとは何か』講談社2000。

[3]佐藤達生・木俣元一『図説大聖堂物語』2000。

[4]同上。

[5]黒江光彦 「ステンド・グラス、タピスリー」『大系世界の美術第12巻ゴシック美術』学習研究社1974

[6]『図説大聖堂物語』。

[7] 「建築の構造と空間」『大系世界の美術第12巻ゴシック美術』。

[8] 佐藤達生・木俣元一『図説大聖堂物語』河出書房新社2000。

[9] 同上。

[10]馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー』講談社1992。

[11] 山岡光治『地図を楽しもう』岩波書店2008。

[12] 吉田鋼市『西洋建築史』森北出版2007。

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